雑記 音楽

喪失の痛みと弔いについて(または推しの引退に寄せて)

おはよーございまーす🌸たかしぃです。

と、いつものように挨拶をいたしましたが、とてもこのようなテンションではございません。ここ数日、ご心配をおかけした方々、よくわかんないけどタイトルが目についた方々、よければ少々お時間をください。タイトルで嫌な予感がする方はここでストップしましょう。どうぞ体調にお気を付けください。

大好きな役者さんの引退が決まりました。

6月くらいから体調不良によってイベントの中止などがあり、心配していたのですが、正式に本人と事務所から発表がありました。2022年7月25日の月曜日のことでした。引退、という方法で私達の目の前からいなくなってしまうのは、役者さんの中ではまだマシな方だと言われればそれまでですが、とてつもない衝撃でした。

彼についてつらつらと語ることは止めておきたいです。今回は彼の引退発表で受けた喪失感と弔いについて、自分の言葉で語りたいと思い、こうして文章にしています。

哲学についての知識は全然ありませんので、一個人の思考回路と感情として受け止めてくだされば幸いです。

知らせを教えられたとき、私は号泣しました。その日はほぼ一睡もできず、かといって何も活動できずに次の日も過ごしたと思います。

事実を飲み込みたくないから食欲不振・吐き気・嘔吐に至りました。飲み込んだ後は、消化不良。息苦しく(生き苦しく)て、呼吸が浅く、動悸が激しかったです。多少の不眠も続き、ボロボロです。現在はそれなりに体調が戻りつつありますので、ご安心ください。

この経過を考えると、昨年、祖母が亡くなった時と似ていることに気づきました。

「彼が私から観測できなくなるということは、私の中では彼は死ぬんだ」

そう考えたら、辛くて苦しくて悲しくて仕方がありませんでした。そのうちに考えます、祖母の葬式はできるけれど、彼は生きているし、どうすればいいのか、と。

誰かを喪うという痛みを和らげたり、昇華したりするために、弔いはあるのだと思い知りました。それでも、親戚のように彼について語り合える仲間もおらず、私は弔えない苦しみを味わうことになります。仲間を探すことすら、苦しくてできない。それでも生活はしていかなければならない。

時間という薬で、徐々に受け入れることはできていきます。それでも苦しいものは苦しいです。眠れるようになっても、途中で起きたりします。そもそも不眠気味でしたしね。

2022年7月28日、早朝。不意に、自分なりの弔いについて思い至りました。彼を想って歌う。最適解を見つけた気持ちでした。私が歌を始めたのは、記憶にも薄い小学校一年生の春です。自分の感情表現のかなりの部分を歌に託して生きてきています。歌を歌うことは私にとっては呼吸をすることです。それが良いことなのかどうかはわかりませんが、私はそうして生きてきました。

ありったけの楽譜を漁って、片っ端から歌いました。彼を弔うに相応しい曲もみつけました。(このような言い方は申し訳なさもありますが)

もちろん、神社やお寺とか、そういう静謐な場所で祈ることも弔いです。祈る、という行為は自分の心と向き合う行為だと、考えています。

たくさん歌って、少し前向きになれました。なのでこうして文章にしています。そしてまた、この文章を書くことで、弔いがひとつ、進んでいきます。

文章を書いていても息苦しくなったり、手が止まったりしました。それでも、私は日常生活に戻らなければなりません。11月に、笑顔で彼を見送ることができるように。

最後に彼の舞台の中から、特におすすめのものを宣伝させてください。もし、興味をもってくださったり、同じくファンの方がいらっしゃったら、ぜひお話ししましょう。

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